孵化:無意識下の心的プロセス

孵化(incubation)の段階で何が起こっているのかは、意識に上らないために本人に問いただしても答えることはできない。これが創造性の神秘性の起源であり、無意識下の心的プロセスを解明することが創造性研究の中心課題の一つである。

Sawyerは”Explaining Creativity”の中で、これまでの数多くの孵化に関する研究を踏まえて、9つの仮説(書籍では定理と呼ばれているが仮説と呼ぶことが相応しい)が提示されている。うち3つには実験的研究の裏付けがあるとされている。

孵化の状態は異なる問題や課題によって引き起こされるものであり、必ずしも1つの状態に特定できるわけではない。ここでは、イノベーション教育に最も関係が深いと思われる仮説から説明することにする。

1つめの仮説は、活性化の拡散(Spreading activation) である。この仮説では意味的ネットワークを通じて、記憶されている関連する概念が徐々に活性化されてゆくと考える。まず意味的ネットワークについて説明しよう。

思いつくことと思い出すことはかなり類似性がありそうだ。 思い出せそうなのに思い出せない、そのな経験は誰にでもあるはずだ。そのなときの頭の状態は、何かを思いつこうとしている状態と似ている。もう少しで思い出せそうなのに、どうしても思い出せないので、諦めて別のことをしていたら、ふと思い出そうとしていたことが頭に浮かんできた、という経験もあるのではないか。これは、「思いつく」方の話で言えば、孵化(Incubation)とその後に訪れるひらめき(Illumination, Insight)に対応している。

記憶には、自己の経験の記憶であるエピソード記憶、知識の記憶である意味記憶、技能の記憶である手続き記憶など、様々な種類がある。コリンズとロフタス(Collins & Loftus, 1975)は、意味記憶が意味的類似性や意味的関連性によってネットワークを構成しているという意味記憶ネットワークモデルを提唱した。下図のように、2つの概念間に共通する特性が多いほど、両者の関連性が密接になる。ある概念が処理されると、その概念から活性化がリンクのつながった概念へ波及してゆくとかんがえられる。これを活性化拡散と呼ぶ。活性化拡散はプライミング効果を用いた実験によって確認されている。

semantic network
図 意味記憶のネットワークモデル(記憶の心理学, 太田信夫、放送大学教材, 2008, Originally from Collins and Loftus, 1975)

プライミング効果とは、先に呈示された刺激(プライム)の処理が、後続の刺激(ターゲット)の処理を促進するという現象である。被験者に文字列(プライム)を呈示し、それが単語であるかどうかを判断することを求める。次に別の文字列(ターゲット)を呈示し、同じようにそれが単語であるかどうかを判断することを求める。その時に判断に要した判断時間を計測する。プライムとターゲットが、例えばパン(bread)とバター(butter)のように関連性があると判断時間は短くなる。プライムによってターゲットにも活性化が拡散したと理解するのである。

Yaniv and Meyer (1987)の実験は、孵化(Incubation)とその後に訪れるひらめき(Illumination, Insight)に関する示唆に富んでいる。ステップ1:まず、滅多に使われない単語の定義を示し、15秒間にその単語を言い当ててもらう。単語が思いつかなかった場合、その単語を知っているという感覚(FOK, the feeling of knowing)を自己評価してもらう。喉まで出かかっている、という場合はFOKが高く、まったくそんな単語を思いつきそうもない、というのはFOKが低いと評価される。ステップ2:次に、ある文字列を提示して、それが単語かどうかを判断してもらう。その判断に要した時間(反応時間)を計測する。

下図は、ステップ1で言い当てることが出来なかった単語(Targe )に対して、ステップ2において単語と判断するために要した反応時間を縦軸に、FOKを横軸にとったものだ。FOKが高くなるに従って、反応時間が短くなる。思い出せそうで思い出せなかった単語を示された時、直ぐにそれが単語であると判断できるということだ。Distractorは、無関係な単語に対する反応時間を表しており、FOKが高い場合には、思い出せそうで思い出せなかった単語の方が、無関係な単語より早く単語であると判断できることを示している。

incubation
From Yaniv, Ilan, and David E. Meyer. “Activation and metacognition of inaccessible stored information: potential bases for incubation effects in problem solving.” Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition 13.2 (1987): 187.

思い出せそうなのに思い出せないステップ1の状態では、長期記憶の検索が行われているはずだが、その過程は意識には上がってこない。暗黙的な処理過程の結果が「もう少しで思い出せそう」という情動的な反応を引き起こし、さらに、その単語を示された時、直ぐにそれが単語であると判断できるという結果に結びついている。

これは無意識の状態といっても、全て同じように空白なのではなく、意識に上らないレベルで状態に差があり、それが外界からの刺激に対する反応の差につながっていることを示している。ある単語を思い出そうとしている時、その単語の概念が活性化されており、その活性化の度合いが高いほど、その単語を知っているという感覚(FOK, the feeling of knowing)が高くなる。活性化の度合いが高いほど、その単語を呈示された時に、それが単語であると判断する半の時間が短くなるのである。

準備(preparation) の段階で概念の活性化が起こり、そのに続く孵化(incubation)ではその概念は意識に上らず、何らかのきっかけから、活性化されていた概念が意識に上り、ひらめき(illumination)または 洞察(insight)が生じるということは理解されたであろう。では、孵化(incubation)では何が起こっていて、どうやってひらめき(illumination)または 洞察(insight)が生じるのであろうか。ヒントは脳科学における知見から得られる。

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